アメリカ文系博士課程振り返り(2021年8月)
↑Detroitで撮った写真
↑Detroitで撮った写真
帰国子女でもない日本人が、企業の後ろ盾もなく28歳で初めて留学し、その後アメリカの大学院の人文系Ph.D.プログラムに入学して博士号を取得した経験はかなりレアだと思うので、どれくらいの人に役に立つのか未知数な部分もあるけれど、記憶が風化する前に何か書き留めておいた方が良いかなと思うのと、2020年初から世界を変えてしまったCovid-19の真っ只中なので、卒業式関連のセレモニーがほぼない…ことから、これを書くことで何らかの気持ちの区切りになるかな、とも思い筆を取ることにしました。
文章を書くときは、読者が誰なのかを想定して、何が求められているのか、に意識的になりながら書くのが鉄則かなと思うのだけれど、この文章に関して言うと特に明確な読者イメージは今のところ…ないです。研究者仲間かもしれないし、フィールドワークでお世話になった人たちかもしれないし、私の授業を受けている学部生かもしれないし、これから留学したいという人かもしれない。ただなんとなく私に興味を持ってくれた人かもしれない。
結論から言うと、数式などを全く使わない、言葉が全ての人文系の分野で、英語のハンディを背負いながら学位取得まで乗り切るのは相当大変だったけれど、アジア研究という分野に身を置くことで有利な部分もあったかなという印象。また、アドバイザー(指導教官)がどういう人なのかというのも、特に一対一の関係が5年以上、時には10年近く続く人文・社会系Ph.Dプログラムの院生には死活問題。私のプログラムでは、母集団が少ないので数値化しにくいところもあるけれど、3人に1人くらいは何らかの事情で途中でやめていった。何が大変かというと、Why you shouldn’t get a PhDという短い記事が言い得て妙なので紹介しておきます。やめる理由はだいたいここにあげられるうちのどれかがダメだったということ。ただ、博士プログラムやめてGoogleに就職して幸せに生活している(と思う)先輩もいるので、一概に途中でやめるのが残念、ってわけでも無いです。一方で、やめる人はほぼ全員が、相当悩んだ末にやめているのも事実。
さまざまな困難を乗り越えて得られるものは、終身雇用の教授職にすぐにつながるものではないし、高額な年収でもない。ただ、自分の分野である程度系統だった訓練を受けたという自負と、まあこの先何があっても大丈夫かな?とどこかで思えるような自信、かなと思っている。ちなみに私は在籍中に日本でのフィールドワークを一年間行い、韓国にも語学留学で半年滞在し、コロナになってからは論文をアメリカでも日本でもない場所で書き上げて、それを含めてプログラムを6年ちょうどで終わらせたので、普通卒業まで8-9年くらいかかるうちの学部では驚異的記録である(ここは自画自賛)。
どういうトレーニングを受けたか
1-2年目の合計4セメスターは文献を読んでそれについて話し合って、学期中に何度か、または期末に一回ペーパーを書くということが多かった。授業にもよるけど、3-4枚のペーパーを3回出すか、2-3回発表して、期末に15-20ページくらいのペーパーを書くというパターンが多かった。3年目になるとComprehensive Exam(資格試験)の準備があるので、指導教員と課題本を決めてそれについて話し合うという形が増えた。私はすでに研究テーマが決まっていたし、ボストン大の修士をしたときの貯金?もあったので3年目からはセミナーは一切取らなかったけど、3年目までセミナーをとって、4年目に資格試験を受けるというパターンが多かった様子。
予想外だったのは、私はヴァージニア大の人類学部から指導教員の異動に伴いミシガン大学のアジア言語文化学部に移った経緯があったので、第二アジア外国語を習う必要が生じたこと。これに伴い韓国語を選び、本当に余裕がない毎日の中、学部生と一緒にほぼ毎日初級のクラスを受けることに。ちなみに、日本語話者が、英語話者用に作られた教科書と授業を受けるのは大変効率が悪いのでまったく持ってオススメしない。でも授業料タダだったし仕方がなかった…。結果、奨学金付きで韓国に語学留学する機会もでき、TOPIK4級を取得でき、なんとか韓国で生活できる程度になり、ソウル大の比較文化研究所で研究員のポジションももらえることに。研究にはすごく韓国語を使うわけではないけど、色々と人生が豊かになりました。
あとは、各学期とも授業の他にはひたすら研究資金の調達のために2-3ページの研究計画書を、もう何十個と書いた。主に学内に提出するやつだったけど、これの出来で4ヶ月ある夏休みの財政状況が決まると言っても過言ではなかったので、死活問題だった。基本的に何度も書き直して、指導教員に見てもらって…というプロセスだけど、ノンネイティブだと最後に自分で直した部分が間違っているのが不安で直せなかったりも。これはもちろん人にもよるけど、特に文系の場合一生付いてまわるハンディなのは確か。
その結果、どういう能力がついたのか
とにかく大量の英文を短時間で読んで、その要旨(主張、論の立て方、証拠の扱い方など)をすぐ理解する力、だと思う。これは東大の学部の入試の英語と国語で問われる能力と似ているかな。あとはこれと一見矛盾するかもしれないけど、書かれたものを精読して、作者は行間でどのようなことを伝えたいのかということも、R. Jackson教授の授業で習った。結局、文章を大量にかつ丁寧に読んで、そこから自分の考えをつくって述べること、のサイクルをどう繰り返すか。に尽きるのかもね。オリジナルは真空地帯には存在しない…と上野千鶴子も言っている。
ミシガン大学という場所特有の経験
実は大学院のランクも重要だけど、その大学が学部教育に力を入れているのか、院生やポスドクの研究を重視しているのかによって、院生としての居心地はかなり違ってくる。特にヴァージニア大学は学部教育に力を入れているので、院生へのリソースは弱かった。あと嫌だったのは、「学部生は良い教育を受ける権利があるから、きちんと英語の授業を受けるように」とTAをする留学生の院生向けの英語のクラスの案内の一番最初に書いてあったこと。まるで能力が劣っているという烙印を押されている、お荷物であるというような印象を受ける書きぶりだった。そういうのを報告できるような場も、簡単には思いつかなかった。ミシガンも完璧ではもちろんなかったけど、留学生や院生への待遇やサポートシステムは格段に良かったと思う。
課外活動?としては、実は指導教員に秘密で、2年目くらいから大学院に留学してくる留学生の支援組織の立ち上げと運営に関わっていた。予算が年間100万円くらいついて、それでもアメリカ人の学生の組織よりは低かったけど、世界中から集まったメンバーが超優秀で色々と刺激を受けた。そしてここでウェブマスターになったことで、ちょっとホームページ作成に強くなった。今はこの組織はとても拡大して、ミシガン大の大学院留学生の貴重なインフラになっている…はず。
大変だったこと
実は博士の学生が一番つまづくのは論文執筆の段階だと聞いていて、実際に周囲でも何年かかっても書き上げられなくて、結果消えてしまう人もちらほら見かけた。ただ、私の場合は論文執筆とフィールドワークの計画書を提出してからは比較的自分のペースで進められる(周囲にあまり影響されない)という点でむしろ楽になった。それよりも、私の場合日本からのコネがない状態でアメリカのPh.D.プログラムに入学することの方が大変だった。最初の留学先のBoston Universityでは修士で終わりのプログラムだったので。
コースワークの課題文献は、現実的に考えてもとても終わらない量だったし、全部読めなかったら読めなかったなりにネイティブの学生は話ができて、その結果として話しながら考えたりして何かを得ていく。よって3時間の議論はどうしてもネイティブの学生が中心となることが多かった。正直私にとってコースワークは一部の授業を除いて、それほど助けにならなかったという印象。なので、リーディングが終わらない→授業への参加も中途半端→罪悪感とストレス。という悪循環で、勝ち目がない戦いだなと思っていた。ちなみにコースワーク中は睡眠時間が削られて、学期中は週休0.5日だった。そこまで頑張っても、授業の後は落ち込むくらい議論に貢献できなかったりついていけなかったりした時もあったので、本当にやり過ごすしかないなと思いながらやっていた部分もある。
勝ち目の無い戦いかな、と思ったのはTeachingに関してもそうで。詳細は省くけど、やはりTAはネイティブの方がいいよねって話している学部生の話をラウンジや食堂で耳にした、って話は一度や二度ではない。
日本ではあまりこういう、頑張ってもどうしても思うような基準に届かず、ということは数学以外はあまりなかったので(人生ままならないことは多々あったとしても、自分の能力に関しては自信があった)、その現実をやり過ごして、自分には何ができるのだろうかと考えることが大変だった。例外は先述のJackson教授の必修セミナーで、そこでは積極的に発言・参加ができ、その後の私の研究やものの考え方に絶大な影響を与えた。Masao Miyoshiのこともそれまで全然知らなかった。
それに比べて自分の研究発表を準備したり、本を読んだり文章を書くほうが、やった分だけ自分の血肉になっていく感じがした。また私は幸運なことに、論文執筆やフィールドワークの段階で複数の研究費をもらうことができて、それ以前よりもお金に困るということがなくなった。決まった額しかもらえず、大学街の高い家賃を払っていた1-3年目の頃よりも経済的に余裕ができたのも大きい。
あとは何だろう。やはりアジア人は意識的、無意識的に見下されるので、日常生活でのMicroaggressionで結構エネルギーを使った。どこに住むかにもよるけど、道で絡まれたりすることもたまにあったし、通りすがりの人に車の中から銃で打たれるようなジェスチャーをされたりとかも。それを話しても真剣に取り合ってもらえない現実ももどかしかった。また、こういう話をトピックに出すと場の雰囲気が悪くなるのも困った。あと、グループワークで無視されるのはアジア人留学生あるある。
これは自分の強みだなと思ったところ
「あなたの大学院生としての強みはなんだと思うか」とヴァージニア大人類学部のSkype面接で聞かれた時に、自分はモノづくりが好きで、長い時間をかけて一つのものを作り上げるのが得意だと例を挙げながら答えたけれど、やはりそれは当たっていると思った。3年目くらいから、「quit graduate school 」とか、「アメリカ 大学院 やめる」とか検索しなくなった。自分の研究テーマとか方向性がある程度定まっていると、気分的に随分楽だと思う。とはいえ、研究テーマが定まっていてやるべきことが明確になっている、と言い切れる文系博士課程の院生がどれくらいいるのかって話だけど。
文系Ph.D.をとって今後の人生にとってどう影響があるのか
留学前、日本で建築の博士号を取った職場の先輩が「博士号は足の裏の米粒みたいなものだから」と言っていた。大したものではないけど、取らないと気になる。という意味だったと思う。文系は大学院入ってから取得までの年月が結構長いので、最後の方はもうなんだか大したことではない気分なるけど、でも取らないと今後のキャリアが進まない…という点で、取らないと気になるのは確か。笑
結局、文系Ph.D.は大学教員になるための要件の一つで、それ自体は金銭的見返りとか社会的名誉があんまりないかもしれないけれど、実際に持っている人って、統計年にもよるけどアメリカの人口の1.2-2%くらい(2019年で450万人)。日本の場合は100万人あたり569人だから、0.57パーセント。そう考えると、取得の時点で既に希少な人材というか、珍しい人生になったと言えるでしょう。もちろん、ここまで頑張ることを可能にしてくれた環境や運もあるけどね。
なので、人生が全てうまくいくような神通力みたいなのはないにしても、取得に至るまでの困難を克服して、かつ一つのことを長期間かけて成し遂げられる能力、忍耐、粘り強さ、発想力などは評価されるべきだと思う。投資する時間に見合わない金銭的リターン(人文社会系博士の場合、社会的名誉も微妙?)を受け入れて、孤独な戦いに勝った証、でもあるので。
そして執筆は孤独であると同時に、指導教員やライティンググループ、話を聞いてくれる家族や友達、パートナーなど、周囲の人の協力なしにはできないものでもある。もちろん自分も頑張らなければいけなかったけれど、論文の謝辞を書きながら、本当に色々な人を巻き込み、また助けられたプロセスだったな、と思うことしきり。
文章を書くときは、読者が誰なのかを想定して、何が求められているのか、に意識的になりながら書くのが鉄則かなと思うのだけれど、この文章に関して言うと特に明確な読者イメージは今のところ…ないです。研究者仲間かもしれないし、フィールドワークでお世話になった人たちかもしれないし、私の授業を受けている学部生かもしれないし、これから留学したいという人かもしれない。ただなんとなく私に興味を持ってくれた人かもしれない。
結論から言うと、数式などを全く使わない、言葉が全ての人文系の分野で、英語のハンディを背負いながら学位取得まで乗り切るのは相当大変だったけれど、アジア研究という分野に身を置くことで有利な部分もあったかなという印象。また、アドバイザー(指導教官)がどういう人なのかというのも、特に一対一の関係が5年以上、時には10年近く続く人文・社会系Ph.Dプログラムの院生には死活問題。私のプログラムでは、母集団が少ないので数値化しにくいところもあるけれど、3人に1人くらいは何らかの事情で途中でやめていった。何が大変かというと、Why you shouldn’t get a PhDという短い記事が言い得て妙なので紹介しておきます。やめる理由はだいたいここにあげられるうちのどれかがダメだったということ。ただ、博士プログラムやめてGoogleに就職して幸せに生活している(と思う)先輩もいるので、一概に途中でやめるのが残念、ってわけでも無いです。一方で、やめる人はほぼ全員が、相当悩んだ末にやめているのも事実。
さまざまな困難を乗り越えて得られるものは、終身雇用の教授職にすぐにつながるものではないし、高額な年収でもない。ただ、自分の分野である程度系統だった訓練を受けたという自負と、まあこの先何があっても大丈夫かな?とどこかで思えるような自信、かなと思っている。ちなみに私は在籍中に日本でのフィールドワークを一年間行い、韓国にも語学留学で半年滞在し、コロナになってからは論文をアメリカでも日本でもない場所で書き上げて、それを含めてプログラムを6年ちょうどで終わらせたので、普通卒業まで8-9年くらいかかるうちの学部では驚異的記録である(ここは自画自賛)。
どういうトレーニングを受けたか
1-2年目の合計4セメスターは文献を読んでそれについて話し合って、学期中に何度か、または期末に一回ペーパーを書くということが多かった。授業にもよるけど、3-4枚のペーパーを3回出すか、2-3回発表して、期末に15-20ページくらいのペーパーを書くというパターンが多かった。3年目になるとComprehensive Exam(資格試験)の準備があるので、指導教員と課題本を決めてそれについて話し合うという形が増えた。私はすでに研究テーマが決まっていたし、ボストン大の修士をしたときの貯金?もあったので3年目からはセミナーは一切取らなかったけど、3年目までセミナーをとって、4年目に資格試験を受けるというパターンが多かった様子。
予想外だったのは、私はヴァージニア大の人類学部から指導教員の異動に伴いミシガン大学のアジア言語文化学部に移った経緯があったので、第二アジア外国語を習う必要が生じたこと。これに伴い韓国語を選び、本当に余裕がない毎日の中、学部生と一緒にほぼ毎日初級のクラスを受けることに。ちなみに、日本語話者が、英語話者用に作られた教科書と授業を受けるのは大変効率が悪いのでまったく持ってオススメしない。でも授業料タダだったし仕方がなかった…。結果、奨学金付きで韓国に語学留学する機会もでき、TOPIK4級を取得でき、なんとか韓国で生活できる程度になり、ソウル大の比較文化研究所で研究員のポジションももらえることに。研究にはすごく韓国語を使うわけではないけど、色々と人生が豊かになりました。
あとは、各学期とも授業の他にはひたすら研究資金の調達のために2-3ページの研究計画書を、もう何十個と書いた。主に学内に提出するやつだったけど、これの出来で4ヶ月ある夏休みの財政状況が決まると言っても過言ではなかったので、死活問題だった。基本的に何度も書き直して、指導教員に見てもらって…というプロセスだけど、ノンネイティブだと最後に自分で直した部分が間違っているのが不安で直せなかったりも。これはもちろん人にもよるけど、特に文系の場合一生付いてまわるハンディなのは確か。
その結果、どういう能力がついたのか
とにかく大量の英文を短時間で読んで、その要旨(主張、論の立て方、証拠の扱い方など)をすぐ理解する力、だと思う。これは東大の学部の入試の英語と国語で問われる能力と似ているかな。あとはこれと一見矛盾するかもしれないけど、書かれたものを精読して、作者は行間でどのようなことを伝えたいのかということも、R. Jackson教授の授業で習った。結局、文章を大量にかつ丁寧に読んで、そこから自分の考えをつくって述べること、のサイクルをどう繰り返すか。に尽きるのかもね。オリジナルは真空地帯には存在しない…と上野千鶴子も言っている。
ミシガン大学という場所特有の経験
実は大学院のランクも重要だけど、その大学が学部教育に力を入れているのか、院生やポスドクの研究を重視しているのかによって、院生としての居心地はかなり違ってくる。特にヴァージニア大学は学部教育に力を入れているので、院生へのリソースは弱かった。あと嫌だったのは、「学部生は良い教育を受ける権利があるから、きちんと英語の授業を受けるように」とTAをする留学生の院生向けの英語のクラスの案内の一番最初に書いてあったこと。まるで能力が劣っているという烙印を押されている、お荷物であるというような印象を受ける書きぶりだった。そういうのを報告できるような場も、簡単には思いつかなかった。ミシガンも完璧ではもちろんなかったけど、留学生や院生への待遇やサポートシステムは格段に良かったと思う。
課外活動?としては、実は指導教員に秘密で、2年目くらいから大学院に留学してくる留学生の支援組織の立ち上げと運営に関わっていた。予算が年間100万円くらいついて、それでもアメリカ人の学生の組織よりは低かったけど、世界中から集まったメンバーが超優秀で色々と刺激を受けた。そしてここでウェブマスターになったことで、ちょっとホームページ作成に強くなった。今はこの組織はとても拡大して、ミシガン大の大学院留学生の貴重なインフラになっている…はず。
大変だったこと
実は博士の学生が一番つまづくのは論文執筆の段階だと聞いていて、実際に周囲でも何年かかっても書き上げられなくて、結果消えてしまう人もちらほら見かけた。ただ、私の場合は論文執筆とフィールドワークの計画書を提出してからは比較的自分のペースで進められる(周囲にあまり影響されない)という点でむしろ楽になった。それよりも、私の場合日本からのコネがない状態でアメリカのPh.D.プログラムに入学することの方が大変だった。最初の留学先のBoston Universityでは修士で終わりのプログラムだったので。
コースワークの課題文献は、現実的に考えてもとても終わらない量だったし、全部読めなかったら読めなかったなりにネイティブの学生は話ができて、その結果として話しながら考えたりして何かを得ていく。よって3時間の議論はどうしてもネイティブの学生が中心となることが多かった。正直私にとってコースワークは一部の授業を除いて、それほど助けにならなかったという印象。なので、リーディングが終わらない→授業への参加も中途半端→罪悪感とストレス。という悪循環で、勝ち目がない戦いだなと思っていた。ちなみにコースワーク中は睡眠時間が削られて、学期中は週休0.5日だった。そこまで頑張っても、授業の後は落ち込むくらい議論に貢献できなかったりついていけなかったりした時もあったので、本当にやり過ごすしかないなと思いながらやっていた部分もある。
勝ち目の無い戦いかな、と思ったのはTeachingに関してもそうで。詳細は省くけど、やはりTAはネイティブの方がいいよねって話している学部生の話をラウンジや食堂で耳にした、って話は一度や二度ではない。
日本ではあまりこういう、頑張ってもどうしても思うような基準に届かず、ということは数学以外はあまりなかったので(人生ままならないことは多々あったとしても、自分の能力に関しては自信があった)、その現実をやり過ごして、自分には何ができるのだろうかと考えることが大変だった。例外は先述のJackson教授の必修セミナーで、そこでは積極的に発言・参加ができ、その後の私の研究やものの考え方に絶大な影響を与えた。Masao Miyoshiのこともそれまで全然知らなかった。
それに比べて自分の研究発表を準備したり、本を読んだり文章を書くほうが、やった分だけ自分の血肉になっていく感じがした。また私は幸運なことに、論文執筆やフィールドワークの段階で複数の研究費をもらうことができて、それ以前よりもお金に困るということがなくなった。決まった額しかもらえず、大学街の高い家賃を払っていた1-3年目の頃よりも経済的に余裕ができたのも大きい。
あとは何だろう。やはりアジア人は意識的、無意識的に見下されるので、日常生活でのMicroaggressionで結構エネルギーを使った。どこに住むかにもよるけど、道で絡まれたりすることもたまにあったし、通りすがりの人に車の中から銃で打たれるようなジェスチャーをされたりとかも。それを話しても真剣に取り合ってもらえない現実ももどかしかった。また、こういう話をトピックに出すと場の雰囲気が悪くなるのも困った。あと、グループワークで無視されるのはアジア人留学生あるある。
これは自分の強みだなと思ったところ
「あなたの大学院生としての強みはなんだと思うか」とヴァージニア大人類学部のSkype面接で聞かれた時に、自分はモノづくりが好きで、長い時間をかけて一つのものを作り上げるのが得意だと例を挙げながら答えたけれど、やはりそれは当たっていると思った。3年目くらいから、「quit graduate school 」とか、「アメリカ 大学院 やめる」とか検索しなくなった。自分の研究テーマとか方向性がある程度定まっていると、気分的に随分楽だと思う。とはいえ、研究テーマが定まっていてやるべきことが明確になっている、と言い切れる文系博士課程の院生がどれくらいいるのかって話だけど。
文系Ph.D.をとって今後の人生にとってどう影響があるのか
留学前、日本で建築の博士号を取った職場の先輩が「博士号は足の裏の米粒みたいなものだから」と言っていた。大したものではないけど、取らないと気になる。という意味だったと思う。文系は大学院入ってから取得までの年月が結構長いので、最後の方はもうなんだか大したことではない気分なるけど、でも取らないと今後のキャリアが進まない…という点で、取らないと気になるのは確か。笑
結局、文系Ph.D.は大学教員になるための要件の一つで、それ自体は金銭的見返りとか社会的名誉があんまりないかもしれないけれど、実際に持っている人って、統計年にもよるけどアメリカの人口の1.2-2%くらい(2019年で450万人)。日本の場合は100万人あたり569人だから、0.57パーセント。そう考えると、取得の時点で既に希少な人材というか、珍しい人生になったと言えるでしょう。もちろん、ここまで頑張ることを可能にしてくれた環境や運もあるけどね。
なので、人生が全てうまくいくような神通力みたいなのはないにしても、取得に至るまでの困難を克服して、かつ一つのことを長期間かけて成し遂げられる能力、忍耐、粘り強さ、発想力などは評価されるべきだと思う。投資する時間に見合わない金銭的リターン(人文社会系博士の場合、社会的名誉も微妙?)を受け入れて、孤独な戦いに勝った証、でもあるので。
そして執筆は孤独であると同時に、指導教員やライティンググループ、話を聞いてくれる家族や友達、パートナーなど、周囲の人の協力なしにはできないものでもある。もちろん自分も頑張らなければいけなかったけれど、論文の謝辞を書きながら、本当に色々な人を巻き込み、また助けられたプロセスだったな、と思うことしきり。
© 2014 Kunisuke Hirano